猟銃による狩猟活動が無くなり、1963年には南端の脇野沢で下北A群の餌付けがはじまる。北部では生息地に除草剤が空中散布され、緊急調査が実施され、日本モンキーセンターなどが批判の声明文を出している。
この後の継続調査で、特に南部域の下北A群において個体数の増加、分布面積の拡大がみられるようになる。
下北A群は、餌付けによって頭数が100頭をこえ1978年には分裂が起こり、生息域が一気に拡大する。生息域の拡大は猿害地域の拡大をともない、これによって1982年に、猿害を主に起こしていた下北A2群ではなく下北A1群が全頭捕獲されてサル山に収容されてしまう。その状況は現在まで継続されている。餌付けは1979年から段階的に減らされ、捕獲以降は完全に中止となった。
この期間の下北半島全域の様子を、1970(S.45)(主に竹下調査)、1980(S55)、1990年(H.2)などの調査で確認されうる生息情報によって分布域を作成し、環境庁3次メッシュ区画図で見ると、北部域、南部域とも拡大し続けていることがわる。
1970年代後半からU群(牛滝の群れ)の輪郭が徐々にはっきりしてくる。しかしながら、1980年代、1990年代に入ってもB群との関係、つぎつぎと発見される大荒川林道の群れ、長右衛門林道の群れ、流汗台の群れなどとの関係が新たな疑問として発生し論議され、まだはっきりしていない状況が続いている。
また、1998年(H.10)になると南北に分断されていた生息地は、北部地域個体群の分布域拡大南下に伴って佐井村牛滝周辺で接続する。
この間の分布の特徴は、北部の分布域が急速に膨張をとげたことであろう。反対に、南部域の分布には目立った拡大は見られないという、南北で異なった現象が起こったことは注目すべき点である。1999年冬調査結果からも、分布域の拡大は今後も北部地域個体群の分布域を中心にすすむことが予想される。
この南北が異なった拡大傾向をもっていることについては後ほど考察する。
つぎに、それぞれを少し細かく見ていきたい。
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