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終戦後〜高度成長期(1945年〜1960年)のニホンザルの分布
終戦後の昭和30年代(1955年)におけるチェーンソウの導入と森林軌道の拡充によって、各地で広大な大面積皆伐がすすんだ。例えば、チェーンソウが導入されている1959年(17台)の下北半島のヒバのみの伐採量8万7022立方bは、先述した享和元年(1801)から3年間の伐採量である26万余石(26万7000石として約7万4226立方b)を1959年1年間だけで5万立方bも上回っている。この年の総伐採量は12万4306立方bであるからいかにその量が膨大なものかがわかるだろう。
その後、林道とトラックによる搬出に替わり、瞬く間に原生林はなくなっていった。そして、その伐皆地の多くは、スギ・カラマツが植林されていった。サルのすみにくい森あるいはすめない森の面積が急速に拡大していく時代の到来である。
岸田久吉資料(1953年)、竹下完資料 (1960年・1970年)などから終戦1945 年(S.20)以降1955年(S.30)ころまでこの狩猟は継続されていたことがうかがわれ、下北半島分布域の南北の分断とそれぞれの分布地の縮小が進んだ。下北以外の青森県内でも青森市東側にある東岳の生息地、十和田湖周辺の生息地は完全に消滅している。この縮小と分布域の分断傾向は、前述したように近代銃による狩猟が主な原因であった。1955年(S.30)代、日本の高度経済成長期にはいると、獣肉食、毛皮需要、サルの胆など民間薬需要はほとんどなくなり、狩猟はイノシシ、野鳥類を除いて終息する。
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1960年代に入ると、京都大学などによってニホンザル分布調査が本格的にすすめられ、下北半島のニホンザルの生息状況も徐々に明らかになっていく。当時(1963)、下北半島脇野沢を訪れて調査した伊沢は「九艘泊から黒滝にいたる約10kmの範囲に群れが3つ、そのおのおのの群れの個体数が10数頭と、各地のニホンザルの群れにくらべて、極端に小さい・・・」とその群れの規模の小ささを指摘している。1954年に九州高崎山で餌付けされた一群れは300頭ほどの大きさだったし、そのころ西日本各地でつぎつぎに開苑していた野猿公苑の当初の頭数が30頭以上が普通だったことも下北の野生群の規模の小ささを印象づけることになった。
この終戦後の一時期は、分布面積も、その頭数も、下北半島のニホンザル史上もっとも縮小した時期だったといえよう。
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