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江戸時代末期〜大正時代(1923年以前)のニホンザルの分布

 さて、文献などに記載された生息情報が多くなってくるのは大正時代以降である。この報告では、大正期の生息情報にふれながら、特に1960年から1999年にかけての約40年間の変遷を紹介する。
 かつて、恐山から西の山地はヒバ(ヒノキアスナロ)とブナ、ミズナラの大森林であった。江戸時代以前、人々はこれらの木を伐り、家を建て、船を造り、道具などの生活用品をつくっていた。そして、これらの木を半島外へ売り出すようになると、南部盛岡藩はこれに目をつけ、港からの積み出しに税をかけるようになった。百石につき砂金で約2両から5両の税をかけ、後には杣夫(木こり)にも許可制として税をかけたという。盛岡藩はこれを機に下北半島のほとんどの山々を藩直轄にするが、このことに反発して田名部から東の村々では農民たちが怒ってヒバ山に火をかけて焼いてしまったという事件も起きている(宮本常一 1967)。
 南部盛岡藩の財政が切迫するようになると、藩自らが定めた良材のある禁伐のお留山まで伐採したり、払い下げたりするようになる。例えば、宝永2年(1705)南部藩は大畑湊に出すヒノキ材をもって金7000両を借金していたり、正徳6年(1716)5500両で大阪の商人に大畑の山を15ヶ年で伐採する権利を与えている(宮崎道生1970)。また宝暦10年(1760)には、下北・田名部山中のヒバ1000本を伐っているし、また、享和元年(1801)から三年までで、のべ65ヶ山で26万余石、約5千600両分の木材を払い下げ、伐らせている。
 上記のような人為的伐採によって、下北半島の森林は、江戸期、明治期、大正期にわたって変化していった。ある時期、ある場所ではヒノキアスナロが優先的に伐られ、またある時期、ある場所では優先的に保護されることによって。ヒバ、ブナ、ミズナラ林であることには変わりないものの、地域ごとにヒバが優先する場所とヒバがほとんどない場所が出現していた。当時の伐採は人力によるノコギリでの伐り倒して、一定以上の年輪のものを伐採(輪伐)するとか樹種などを選択して伐る(択伐)のが主であり、搬出も人力+河川利用が主であった。しかも搬出しやすい森林から伐られたことから最奥の森林にはほとんど手が着けられていなかった。こうしたことも地域的な樹種の偏りの背景にあったと思われる。しかしこうした森林利用は、時間がたてばもとの自然植生を回復させやすかった。
 ところが、明治維新後、下北半島を含むほとんどの東北地方の森は国有林となり、大正期から森林軌道が敷設され搬出の効率が高まると、伐採速度ははやまった。そして、革命的に変化する時期がやってくる。それは後述する。
 さて、こうしたニホンザルのすみかである森林の劣化に向かう変化に先んじて、ニホンザルの絶滅情報はもたらされていた。
 下北半島のニホンザルの分布域は、明治中期ころから縮小が始まっていることが推定される。例えば、1923年(T.12)の長谷部言人がおこなったアンケート調査結果は、三河の旅人菅江真澄が記した江戸時代の寛政4年に恐山参道でニホンザルなどが踏み荒らした跡(群れ?)を記録しているが、明治時代に消滅したことを報告している。また川内町内生息地の消滅も確認できる。
 こうした分布の消滅が、乱伐など森林の消滅よって引き起こされたとする見方があるが、たとえば、川内町の生息がなぜ消えたかについて調べると、次のような背景がわかってくる。長谷部資料には“川内町には、以前にはニホンザルが生息していたが、鉱山開業や森林伐採のため脇野沢・佐井方面へ移動した”との内容が記してある。別の資料(宮本常一 1967)でこれがどんなことであった かを調べると、川内町の安部城で、大正3年に銅の採掘・製錬がはじまり、まもなく、民有林・国有林の木が枯れはじめ、安部城を中心に半径7kmほどの木がほとんど枯れてしまったという。鉱山会社や国は枯死寸前の樹木を次々に伐採した。銅の製錬が亜硫酸ガスなど有毒ガスを排出し、樹木が枯死するという事態をまねいたのである。鉱山は、大正9年には製錬を中止し、昭和10年に閉山している。
 森林の枯死によって、サルがすみづらくなったことは間違いない。彼らが佐井や脇野沢に移動できたかはわからない。同じ時期、次のような記録(竹下完1970年 生息アンケート資料、未発表)もある。“大正20年ほど前、下北半島内陸部のある集落ではサルの干し肉が軒下に例外なくつり下げられていた”と報告している。当時の狩猟は、森林の枯死には関係なく実施されていた。枯死がサルたちの移動を制限し、生息密度を地域的に高めることによって集中的に狩られることになったのかもしれない。ともあれ川内町内では、大正12年ころにはニホンザルの生息はほとんどなくなってしまった。
 こうしたところからみると、地域的な森林の消滅があったとはいえ、半島全域に狩猟は進んでおり、彼らの消滅の主な原因が、近代猟銃による狩猟圧であった(三戸1992)ことはほぼ間違いないところであろう。全国に目を移しても、当時、ニホンザルをはじめ獣たちは食糧に、毛皮に、医薬品にと需要が高く、乱獲に近い状態で狩られていたのであった。この間ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンカワウソがあいついで姿を消したのは誰も知るところであるが、トキ、コウノトリ、カモシカ、エゾジカなども激減している。こうして、明治時代から大正にかけてニホンザルの分布は急速に縮小、分断化が進んでゆく。

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