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「藩政当時、我が尻屋崎は鬱蒼とした大森林と豊富な漁場とを擁し、住民は豊かな生活を営んでいた。しかし、廃藩後は森林の無計画な伐採により、林地の大部分が砂丘化した。漁場の荒廃は甚だしく、部落は衰退の一途をたどった。青壮年で組織された三餘会(さんよかい)は、この惨状を黙視するに忍び難く、明治45年(1912)に砂防林造成の計画に立ち上がった。他県の先進地を視察し、造林に着手したが、技術の幼稚さと予算の制約のため、遂に実現するには至らなかった。
その後、県直営で施行するように何度も請願を続けてきた努力の甲斐あって、遂に昭和10年(1935)に県はこれを受け容れた。造林は6年の歳月(昭和10年〜昭和15年)(1935〜1940)を費やして完成に至った。その間、三餘会は資材の入手、労力奉仕等自発的な協力を惜しまず提供した。さらに、造林後の保護管理についても自ら率先してその任務に就いた。遂に人々は、今日(1948)ここに見る美林(140町歩=約139ヘクタール)を造り上げた。その結果として漁業は自ら往時のごとく復興し、尻屋部落の厚生の礎ができあがった。」(昭和23年9月30日 田名部町 申賀 謙太郎 謹書)(原文は末尾に掲載、解読できなかった部分は空白として表示した。) 森林消失による陸上への砂による被害についても少し調べてみました。尻屋崎に限定したものではありませんが、昭和42年に発行された「下北の郷土資料」(下北社会教育委員会編)のなかで、東通村の砂による災害について次のように記されています。「春・夏は東風、冬は北西風を直接強く受ける。海岸の砂は非常に細かく、乾燥しやすい。風が吹くたびに、海岸から陸地へ吹き送り、風の強い時は砂粒が空中高く舞い上がり、内陸の遠方まで運ばれる。これらの吹き送られる砂は道路を消して交通を困難にし、耕地を埋没し、林野を埋めて樹木を枯らす。家にも侵入し、目や口喉を犯して人体にいろいろな害を与える。過去において岩屋(尻屋崎の南西約7kmにある集落)の水田が砂に埋もれて全滅したり、古野牛川と岩屋の間の県道が砂に埋もれて車や馬の通行が途絶したり、放牧地の小道が歩けなくなることしばしばあり。」この資料のなかには「東通村海岸砂防林の分布」という植林の実績を示した図面が載せてあります(尻屋崎では昭和7〜12年頃まで約100町歩を県が実施;尻労では昭和10〜12年頃まで約20町歩を県が実施;岩屋と古野牛の間では昭和24〜30年頃まで約200町歩を県が実施)。この図から、これらの砂防林は現在55〜75年くらいの年齢に達していることになります。 北海道襟裳岬にも似たような話があることを松永勝彦氏(海洋化学研究者)は「魚を育てる海」(教科書「国語・中学1年生」平成9年 光村図書発行)に次のように記しているそうです。「江戸時代前半頃まで襟裳岬はカシワ、ナラ、シラカバなどの広葉樹が生い茂る大森林地帯だった。(中略)江戸時代後半から主に岩礁に生えるコンブを求めて人々の移住が始まった。明治になると、開拓農民も加わった。人々は強風や寒さと闘うために家を建て、暖をとるなど、生きるために森の木を伐り続けた。さらに、明治中期以降は紙の材料としての森林伐採も行われた。その結果、森は年ごとに失われ、ついに一帯は砂漠となった。同じ時期、コンブの生育は目に見えて悪くなっていった。沿岸にすむ魚たちも姿を消し、サケの回遊も来なくなった。(中略)その後、住民の願いで緑化事業が着手された。(中略)クロマツによる砂防林が育っていき、緑を再生する過程で、人々は海にコンブや魚が戻ってきたことに気づいた。(以下略)」 このため、襟裳岬は1950年頃には「襟裳砂漠」と呼ばれるようになったそうです。尚、森林消滅の原因等については研究者のあいだで幾つかの点で意見の相違が見受けられます。若菜氏によれば、森の伐採は製紙業の材料伐り出しというより、むしろ海産物産業のために長年おこなわれてきたということです。また、「開拓農民」というより、むしろ「東北からのコンブ移民」が燃料用として樹木を伐採した歴史があることを指摘しています。さらに、明治13〜16年(1880〜1883)頃に起こったバッタの大量発生が森の樹木を枯らすのに追い打ちをかけたと分析しています。昭和10年(1935)頃から襟裳のコンブは泥に被われ、採れる量も商品価値も下落したそうです。松永氏によれば襟裳に植えられたのは最も活着しやすいという理由からクロマツであったそうです。元々存在したような豊かな栄養を海へ供給する広葉樹の森に戻すには数百年かかるだろうと言われています。恐らく下北半島の尻屋崎もそれに近いものかもしれません。 ところで、みなさんは「森は海の恋人」という言葉をどこかで聞いたことがあると思います。この言葉は宮城県気仙沼のカキ養殖漁民が気仙沼湾に注ぐ大川上流に植樹運動を起こしたとき、運動の指導者であった畠山重篤氏が運動に名付けたものだそうです。このとき、運動の推進力になったのが磯焼けの研究者であり、前述の「魚を育てる海」著者でもある松永勝彦氏の説だそうです。彼は「磯焼けの原因は森林が荒廃すると海藻の光合成に必須な鉄分(フルボ酸−鉄錯体)の補給が途絶えるためである」という説を提唱しました(しかし、この説に関しては現在でも学会での結論は出たとは言い難いそうです)。 このように森と海の関係にまつわる問題や生態系の復元活動の話しが全国のあちらこちらにあるようです。さらに、海外の話題ではトム・ライヘン氏(ビクトリア大学教授)の研究によると、カナダ西海岸ではサケが戻ってくる川のある森は、そうでない森に較べて、樹木の生長に2倍以上もの差があるといいます。また、森の樹木の年輪を調べると、川に戻ってくるサケの量が豊富だった1800年代の年輪の幅は、サケの乱獲と環境破壊が進んだ1900年代の年輪の倍以上を示していたそうです。熊や鳥などにより森に運ばれたサケの残骸は樹木を育てる栄養分となり、その50%以上が樹木に吸収されるのだそうです。これは主に海水由来の窒素安定同位体(N15)の分析で分かったことだそうです。若菜氏においても「森」と「海」の双方向の物質循環システムに関する科学的な解明、事実の正確な理解、さらに政策課題を適切に設定し選択することが重要であると強調しています。 今回の尻屋崎探訪でひとつ気になったことがあります。それは尻屋崎の一部で現在もクロマツの防災植林がおこなわれていますが、ミズバショウやゼンテイカ(ニッコウキスゲ)等が生息する湿地にわざわざ暗渠を施し、乾燥させて植林をしていたことです。湿地であり、しかも、それに見あった植生がある場所なのに、何故、植林が必要なのか、わたしには分かりません。青森県郷土館の調査報告(下北丘陵の自然2001)では「尻屋崎には乾湿の草地や池沼が点在する。池沼や湿地にはミズニラ、コタヌキモ、(中略)、カキツバタ、サギスゲ、ニッコウキスゲなどが、また、草地にはツマトリソウ、ナガボノシロワレモコウ、ヒメイズイ、ヤマサギソウなどが見られた。近年暗渠排水が施され、湿原が乾燥化して上記の植物が失われつつある。」と警告しています。 尻屋崎で現在行われている植林が防災林造成の旗印の下での行き過ぎた行為でなければ良いのだがと願っています。若菜氏は「自然・人間・社会システムの持続的発展を保証するには、地球系での物質循環に関する自然の法則によって、人間活動の許容範囲が規定されることが必要である。自然の法則を知り、それにかなう政策の設定や行動を形成することが求められている」と説いています。 文責:鈴木 邦彦(2004年7月) 参考資料: 「笹森儀助風霜録」東奥日報(新聞連載記事)2004年5月29日版 |
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