File 34:森の香水
釜臥山の麓にある住宅地では七月中半になると、きまって香水のような神秘
的な香りが漂います。 はじめてこの香りを感じたのは三年前のこと。その時は
ホントに 「誰かが香水をこぼした」 と思ったのです。 でも、それは間違いであ
ると悟ったのは数日後のことでした。 山道を登ってゆくと 、 あの怪しく匂う空
気が、 所どころで漂っているのです。 この匂いはどこからくるのかと不思議に
思いました。 きっと 、何かの花がこの香水の匂いを放っているのだろうと思い
ましたが、見当が付きません。良く山に出かける知り合いに聞いてみましたが、
「 わたしは鼻があまり良くないから 」とか、 「 山ではたくさんの香りが混ざり合
っているから」とか言われ、ヒントになる話しは聞くことができませんでした。
匂いの漂っている山道では、 怪しくクネッとしなった白い猫のしっぽのよう
な 「 オカトラノオ 」が目立ちます。きっと、これかも知れないと顔を近づけ匂
いをかいでみました。たしかにほのかな良い匂いはありますが、あのどこか刺
激的で、酔わせるような香りとは違うように思いました。目の前の一本の猫の
しっぽは元のほうから先端にかけて、いくつもの小さな白い花、その蕾、それ
から緑色の蕾のできはじめのものが集まってできていました。たくさん開いた
花がついたものでもあの酔うような匂いとはなんとなく違います。いったいど
こから香りはやってくるのだろうかと疑問は晴れません。
七月もおわりに近い雨上がりの午後。あの香りが漂っています。わたしは誘
われるように林道を登って行きました。そして、あらためて道のまわりを眺め
てみました。 オカトラノオ、 ノリウツギ、 ヒメジョオン、 トリアシショウマ ・・・
いずれも白い花たちです。順に匂いをかいで、トリアシショウマを手にした時、
「 あっつ、これだ!」 と思いました。大抵の林道で見かける、あまりにも見慣
れた草であるトリアシショウマ。「灯台もと暗し」 わたしはこの草を1本手で摘
んだあと、なんとなくにっこりしました。そして、 ついでにオカトラノオも1
本いただきました。
家の茶の間の花瓶に挿してお茶を一杯頂きながら眺めていると、あの香りと
林道の緑に包まれた風景色が蘇ってきたのです。三年目にして香りの根源を知
ることができてなんとなく嬉しい一日となりました。机の上の花瓶からすくっ
と延びたトリアシショウマ。そのてっぺんは目の高さよりも高く、不思議にキ
タゴヨウにも似ていて立派に見えます。その夜、玄関先にでてみると、夜空に
は七日月、空気は山から降りてきた香水で満ちていました。
2008年8月14日 鈴木 邦彦