ああ、シラク おまえって奴は  2004年10月13日  匠啓(たくみけい)

 1992年の春、愛知県三河湾に浮かぶサルが島は出産ラッシュだった。
 4月30日に生まれた1頭の♂の赤ん坊に「シラク」という名前が付けられた。

 サルが島には小豆島から移植されたニホンザルの群れが30年あまり暮らしていた。常緑樹林がおおう島で、ヒトによる餌付けはされてはいたが、サルのコドモたちはそこで、のびのびと育っていった。

 ところが、シラクが8歳になった2000年、秋も深まった頃、ふるさととも仲間たちともはなされ、愛知県犬山にある日本モンキーセンターに移送されることになった。そして、それまでの広々とした島とはうってかわって、狭いオリの並ぶ“モンキーアパート4号館(アジア館)”に入れられる。

 そこではサルたちを管理するために、アパートは運動場と寝室に分かれており、昼は運動場、夜は寝室と交互に給餌と清掃が行われるようにサルたちはしつけられていた。ところが、シラクはうっ閉した寝室側に入りたがらず、脅しても水をぶっかけても逃げ回って入ろうとしない、担当者は手こずったという。

 結局、いうことを聞かないサルに対して、ルールを教え込むための強制手段がとられた。それは寝室側にだけ餌をまき、運動場側は給餌を止めるのである。こうするとほとんどのサルは2〜3日もすれば寝室側にも入るようになる。シラクもほかのサルとかわらないと思われていた。しかし、冬であったにもかかわらず、シラクは1週間たってもねを上げず、寝室側に入らなかったという。飢え死にさせるわけにも行かず、けっきょく運動場にも餌をまくことになったが、担当の係員の間では「ずるくて、強情で、手こずらせるサル」だとのもっぱらの噂になった。

 それでも2週間ほどもたってから寝室に渋々入るようになったという。

 それからまもなく、同じ部屋に一頭の若いメス(出身地は別で、他の場所で飼われていた)が入れられた。これも「所帯を持っておとなしくなって欲しい」というヒト側の配慮だったのだろう。ところが、まだ冬季の発情期中にも関わらず、シラクは彼女に対して興味をいだかず、うち解けることもなく、仲良くすることも、かといっていじめたり、攻撃することもなかった。ただ、相手は相手、自分は自分という風情で、無関心であったという。

 翌2001年早春、メスは赤ん坊を生むのだが、彼女がやってきた時期と妊娠期間から、当然、彼の子ではなく、シラクはこの親子とはいつも距離を置いていたという。

 ところがここで思わぬ事件が勃発する。
 孟春、5月4日早朝、モンキーアパート4号館(アジア館)が外部から侵入した何者かのいたずらによって、シラクが入っていたオリと隣のオリの金網が切られたのだ。シラクを含むニホンザル3頭、チベットベニガオ5頭が脱走し、新聞をにぎわせた。

 担当者の追い込みによって、ニホンザルの母子の2頭とチベットベニガオザルの5頭は何事もなかったかのようにオリにもどった。しかし、9歳になったシラクだけは案の定、脱走してオリには帰還せず行方をくらませてしまったのだ。係員らは餌をばらまいていくつもの箱罠をしかけるのだがけっきょくシラクは捕獲できずに日々がすぎていった。
 係員たちは、「新緑の季節だから食い物にはこと欠かんだろうな」「警戒心強い奴だしなあ」といいあいながら、箱罠を設置し続けるしかなかった。罠の回りに撒き餌をするのだが、餌を食べた形跡はなく、食い跡が発見されたりしたが、すべてタヌキやアナグマなどの食痕で、シラクが捕まる気配はなかった。

 「どこかでのびのびと暮らしているだろうな。」「捕まらなくてよかったな」と私の心が傾きはじめたころの、3ヶ月ほどたった7月、犬山市の北辺、かつて自然のニホンザルが分布していた栗栖という木曽川沿いの集落にニホンザルがいるという情報が入った。ハナレザルにしては季節はずれだ。私はシラクでなければよいがと願った。そのサルは、けっこう人慣れしており、子供たちから餌をもらっているという情報も入ってくる。
 7月15日、栗栖で里人がサルを発見。担当係員らが急行しシラクと確認。箱罠がしかけられるが、エサをとらず捕獲はふたたび失敗。

 そして、7月29日、夕焼けで栗栖の山林が染まる頃、シラクが発見される。
 捕獲部隊が急行し、麻酔銃が発射され命中、樹上で睡眠中落下死亡、9歳という短い命は散った。
 シラクはオリの生活がよほどいやだったのだなぁ、と係員らは話し合った。

 ああ シラク、おまえはどうしてもっと遠くへ、木曽川をこえて岐阜の山中へ落ちのびなかったのか。たしかに岐阜はサルが島とは反対の方向であるにはあるが・・・・・
(取材源、鈴木明宏さん、亀谷勝司さん)

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