現代の外来種問題は、生物学的現象にあるのではない  2005年3月6日  三戸幸久

 ちかごろ、侵略的外来種という表現を目にするようになった。
“侵略的”という表現は読んで字のごとくまさに或る外来種が意図的に侵入してきて占領するという敵対的な意味合い、あるいは非難されるべきニュアンスを含んでいる言葉である。エイリアン・スピーシーズという表現もときどき使われるが、これもtoをつけると“敵対的”意味合いをもっているという。

 このような“侵略的”という形容詞をくっつけるのは、外来種がその土地での旺盛な繁殖力やたくましい生活力によって分布を拡大したりするからであろう。具体的に言えば、外来種が生息する土地が排他的様相をもったり、捕食活動によって被捕食者となる在来種の絶滅、あるいは近縁種との交雑によって混血個体に置き換わり在来種の消滅の危機を招きかねないからである。しかしながら、その実態をみればわかるように、このことは彼らが新しい土地において生き、繁殖するための基本的な営為なのであって、敵対的になるのはその営為の結果であるということをまず理解しておかなければならない。

 むしろはっきりさせなければならないのは、この事態の発端は彼らではなく人間がつくったということにある。
 それまでのすみなれた土地から拉致をしてきて、はるか離れた異質の土地での栽培飼育の果ての無責任な放てきという、その種にしてみれば“理不尽”な人間の行為によってこのことは始まったのであった。“侵略的外来種”という表現の怪しさはまさにここにあるといわねばならない。すなわち、侵略的外来種という表現をつかうことによって、人間の不始末は覆い隠されてしまうのである。サル類でいえば、昨今の下北半島、和歌山県でのタイワンザル、千葉県房総半島でのアカゲザルの存在もまさにそれにあたる。

 ほかにもトラブルを起こしている種として広く一般に知られている外来種がある。植物ではセイタカアワダチソウ、魚では有名なブラックバスやブルーギル、鳥類では多摩川河川敷を舞うセキセイインコ、ほ乳類ではアライグマやヌートリアなどなど多い。その原因のほとんどは、無責任な飼育義務放棄であり、不十分な管理が原因の脱走であり、自分都合の楽しみのための放流によってである。

 そしてもう一つ話題にしたいのは、こうした事態に対しての以下のような意見である。

 FRONT (リバーフロント整備センター刊) 2003年5月号に書かれた池田清彦氏の意見である。氏は、「生物相の変化をどのように捉えるべきか」の中で(抜粋)つぎのように述べている。
 ある地域の生物相は、すでに生息している生物種と次々と侵入してくる生物種の間の生存競争の結果である。外来種の侵入を一切認めないということは、進化のダイナミズムを無視するということにほかならない。長いタイムスケールで見れば、外来の生物が侵入するというのはむしろ常態であって、固有生物相を死守しようとする思想は、コトバの真の意味でのアナクロニズムである。ある地域の生物相を現時点で固定しようというのは、ウルトラ保守主義とでも言うべき馬鹿げた妄想である。外来種との生存競争や混血により、消滅する生物があったとしても、それは生物の進化の当然の帰結なのだ。
 確かに外来種と在来種が混血をしてしまうと、生物の地理的変異を調べたり系統解析をおこなっている研究者は困るであろうことはよくわかる。しかし、タイワンザルとニホンザルが融合しても、家の近所にいるヒラタクワガタにパラワン島のヒラタクワガタの遺伝子が入ったとしても、一般の人は何ら困らない。困るのは、地理的変異を調べたり系統解析をおこなっている研究者だけであろう。タイワンザルとニホンザルの混血個体を殺戮<さつりく>するのは、研究者のエゴでしかない。混血により個体群の遺伝的多様性は増大するわけだから、何を考えているのやら。
 ブラックバスのように、多様性の減少をもたらしている外来種は確かに問題であると私も思うが(それでも長い目で見れば、落ち着くべきところに落ち着いていくに違いない)、だからといって、すべての外来種を排斥しようとの思想は唾棄<だき>すべきものだ。


 氏は“外来種の進入を認めない”のは「ウルトラ保守主義とでも言うべき馬鹿げた妄想」だと、たいへんお怒りのようだけれど、問題なのはタイワンザルもブラックバスもその種自身の“意志”(あるいは“自然のなりゆき”)で日本にわたってきたわけではないということである。そうではなくて人間の都合によって“拉致”されてきたというところにある。

 もしも、タイワンザルの群れがほんとうに海を泳ぎわたってきて日本列島に自力で上陸し、繁殖しはじめ、そこでニホンザルとの混血が発生したとしたのなら、だれも文句はいわないだろう。それどころか、氏もいうように、まさに壮大な“進化のダイナミズム”としてこぞってその現象を研究し、評価し、保護するに違いない。

 ところが近年ひんぱんに問題になっている事態は、生物種がつぎつぎと「進入してきている」のではなく、まさに人間の都合によってつぎつぎと運び込まれ、この地で放てきされているという事実である。この事態は人為的な攪乱以外に説明のしようがないものであって、けっして池田氏がいうような“進化のダイナミズム”などという高尚なものではない。
 その生物種にとって見れば、もともとの生息環境とは異なる環境に(たとえば、熱帯に生息する動物を冷温帯の地へ)突然つれてこられ、そこで生きていかなければならなくなったという、人間が自己都合で与えた迷惑な条件を乗り越えて繁殖するという事態である。これをもって氏は“進入”といい“進化のダイナミズム”といい、またある人は“侵略”というレッテルをはる。こうした発想は、人間の不始末をその外来種の生活力に尻拭いさせているということにつながる。

 そして、もっと問題なのは、この池田氏の論がまかりとおることになれば、現代のおもに金儲け主義によっておこなわれているところの、「生物相」もまったく頓着しないルール無視の外来種移植と無責任な放てきはことごとく免罪されてしまうことである。そして抑制のきかなくなった野生動植物の輸入は、放てき地での問題のみならず、現地での希少種の絶滅もまた招来するに違いないのである。

 現代の、人間が起こしたこの類の不始末は人間自身の行為によって正されるべきであって、外来種の生物学的現象に問題をすり替えて、ほおかむりしてはいけないということだ。

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